本研究では、(1)宮城学院女子大学同窓生の生活史に関するインタビュー調査、(2)弘前女学校明治31-34年の卒業論文の再分析、(3)仙台にあった「女子自助館」に関する資料収集と検討を行った。このうち最も成果が顕著だった(3)について概要を示す。 1903年、宮城県知事宛に、プロテスタントの一派・メソジスト派の仙台美以教会の女性宣教師F・E.フェルプスを設置者とする女子教育機関の設置申請が出された。それは仙台幼年女子自助館である。この学校の存在はこれまで宮城県の教育史学でも知られておらず、各種地方史にもこの学校に関する記述はみられない。しかも、この学校は貧困家庭の女子に9ケ年にわたって普通教育と職業教育(裁縫・手芸教授)を行い、その職業的自立を支援した。さらに1903年に女子自助館に改称し、規則が大幅に変更されて、学校の性格も変化し、上級の学校への進学者まで輩出したという当時の地方の女子教育機関にあっては特異な性格を備えていた。 この学校の設立の背景にあったのは、メソジスト派の教義であった。この宗派は、18世紀イギリスの信仰復興運動のなかで、新興中産階級を基盤に、生活の規律や自助を重視する市民的価値観をもとに成立し、その後、とくにアメリカではアジアの恵まれない女性に対する海外伝道を推し進めようとした。そこで、日本のメソジスト派の活動の一例として、フェルプスの事績と幼年・女子自助館の創設から廃校までの軌跡を追った。そして、この学校の設置申請書(学則・カリキュラム)にそって、その概要を紹介したのちに、1903年の私立女子自助館学則の検討をつうじて、女子の自助をめざした女学校が、ナショナリズムの高揚期であった明治後期の仙台の女子教育のみならず、東北地方におけるキリスト教受容にとって有した意義についても明らかにした。
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