今年度は、前年度に確認した明治初期におけるフレーベルの文字教育論(①子どもの関心「読み書きを覚えたいという衝動」に基づき、②置箸法、箸排ヘなどの恩物を活用して文字と音声を理解し、③石筆を用いた読み書きへと移行していくこと)の受容についてさらに詳細に分析検討を行うことができた。 具体的には、東京女子師範学校附属幼稚園における小西信八の監事時代に、恩物による文字 教育としての機能は希薄になっていたことを確認した。当時は、石筆を使用する「読み方」、「書き方」は残されていたものの、子どもの関心に基づいて恩物を活用し、筆記具へと円滑に移行するフレーベルの文字教育の実践は不可能であった。小西信八は、表音文字であるカタカナ教育を推進し、表音文字を活用したフレーベルの文字教育を忠実に実践しようとしていたである 後任の中村五六の時代における明治24年の「幼稚園規則」では、石筆を使用する「読ミ方」、「書キ方」が保育科目から削除されたことにより、文字教育そのものが附属幼稚園から消滅した。しかしながら、当時の幼稚園は、幼稚園不要論に対してその存在意義を示す必要があり、附属幼稚園以外の幼稚園の多くは保護者から期待される文字教育を実践している状況がみられた。明治20年代後半になると幼稚園における文字教育に対する批判が高まり、附属幼稚園の方向性が徐々に浸透してったのである。 こうして、わが国の文字教育において附属幼稚園と小学校では明確に分離されたことにより、幼小の接続が困難になった側面があることを確認した。
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