研究課題/領域番号 |
17K04654
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研究機関 | 関西学院大学 |
研究代表者 |
オムリ 慶子 関西学院大学, 教育学部, 教授 (20193823)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | ローマのユダヤ人コミュニティ / ヴィットーレ・ラヴァ |
研究実績の概要 |
2020年度の研究では、ボローニャでフレーベル幼稚園を運営していたユダヤ人ラヴァが公教育省事務官となり、イタリア最初のフレーベル幼稚園設立に寄与したピックに宛てた手紙を分析した。そして、以下のことが明らかになった。 ①ラヴァは、ボローニャ最初のフレーベル幼稚園を開設するために尽力した。ボローニャでは、ラヴァが関わる前からフレーベル幼稚園開設の動きがあったが、その動きに途中から参加することによって、幼稚園園長や保育者候補を探すなどの貢献をした。 ②ピックはラヴァの要請を受けて、ヴェネツィアにあるピックの「ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ幼稚園」を、幼稚園教師育成のための実習の場とした。ラヴァからピックに宛てた手紙には、イタリア中から実習生を引き受けることによってピックの自尊心が満足するだろうこと、そして自分たちは協力し合わなければならないとしたためつつも、二人はどちらが上に立つのか牽制しあう関係にあった。 ③ラヴァは、ローマのユダヤ人幼児院をフレーベル幼稚園に変えようとしていたが、幼児教育後進地域であったローマではなかなか賛同を得ることができなかった。公教育省事務官となったラヴァは、混合メソッド(幼児院に普及していたアポルティ・メソッドと新しい教育法であるフレーベル・メソッドを混合した保育)を幼児院の保育に取り入れながら、次第に幼児院の保育をフレーベル・メソッドのみにしていくという方策を考えた。 以上のことから、ラヴァが公教育省事務官として首都ローマに赴任したことによって、ローマのユダヤ人コミュニティにもフレーベル幼稚園導入を働きかけようとしていたことが明らかになったことは、今までのイタリア幼児教育史の中で知られておらず、またこれに尽力したラヴァの名前すら埋もれてしまっている現状からみても、学術的な意義がある。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究の課題はヴェネツィアのユダヤ人コミュニティにおいて、どのように幼稚園導入が行われたのかをヴェネツィアのカンナレージョ地区を中心に明らかにすることであった。1年目はヴェネツィアのゲットー(ヴェネツィア語で鋳造所という意味)の歴史を振り返りながら、ユダヤ人コンパレッティ夫人の幼稚園設立を追い、2年目はコンパレッティ夫人の寄付で設立された公立幼稚園開園までのヴェネツィア市との交渉を、(3年目は父の介護のために研究ができなかった)4年目はイタリア最初の幼稚園設立にかかわったピックと、公教育省事務官のラヴァとのかかわりを、ラヴァのピック宛の手紙を分析することを通して明らかした。 3年目の研究は上記の理由から空白になってしまったが、4年目にはラヴァの手紙を分析することによって、首都ローマへの幼稚園導入の兆しを発見することができたため、「おおむね順調に進展している」と考えた。
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今後の研究の推進方策 |
4年目の研究でラヴァの手紙を分析する中で、ベッルッツィという言葉が複数回登場し、その言葉がサークルの名前なのか人物名なのかが判断がつかなかった。しかし、ウーディネ図書館の希少文献室で採集したピックの手紙群から、ラファエーレ・ベッルッツィ(Raffaele Pelluzzi)の手紙を見つけ、彼はラヴァがボローニャの幼稚園設立にかかわる前から保育内容案を考えていた人物であることが分かってきた。 今年度の研究では、ラファエーレ・ベッルッツィの手紙文を分析することによって、ベッルッツィとピックの関係や、ベッルッツィがボローニャの幼稚園設立にどのような貢献をしたのかを明らかにしたいと考えている。
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次年度使用額が生じた理由 |
当初はイタリアでヴェネツィア初期幼稚園の資料を収集する予定であったが、コロナ禍のため渡航ができず費用が残った。 今年度は、コロナ禍が収まり渡航することができれば、ヴェネツィア初期幼稚園に纏わる手紙文や市との交渉の文書等をすべて収集したいが、コロナ禍が収まらないようであれば、すでに収集済の市との交渉文書(筆記体文書)を、書き起こし専門のイタリア人にブロック体文書に書き出してもらう費用に充てる。
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