研究課題/領域番号 |
17K06713
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研究機関 | 鹿児島大学 |
研究代表者 |
小山 雄資 鹿児島大学, 理工学域工学系, 准教授 (80529826)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2021-03-31
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キーワード | 住宅政策 / 居住資源 / 給与住宅 / 公営住宅 / 名瀬 / 織工アパート |
研究実績の概要 |
2019年度も奄美市名瀬の織工アパート群を対象として、その社会的な位置づけを検討するための基礎データを整理した。とくに、自治体の施策が反映される公営住宅を比較対象として設定し、関連する計画書や報告書、回顧録等を収集して分析・考察した。 旧名瀬市による市営住宅の建設は、日本復帰の2年後、1955年度の奄美群島復興事業の30戸から確認できる。この年は市街地で約1,500戸の住宅を焼失する2度の大火があり、翌年度までに360戸の災害公営住宅(簡易耐火構造・平家建て)が建設されている。名瀬は急峻な山地が海岸線近くまで迫り、狭小な平坦地に市街地が密集している。災害公営住宅は市街地の外縁に相当する谷筋や山裾に団地を形成した(平田原、佐大熊、田雲)。住宅は後に中高層耐火構造へと建て替えられ、今日の市営住宅ストックの主要な部分を構成するに至っている。 1965年の国勢調査によれば、名瀬市の人口集中地区(DID)には3.5万人が暮らしており、その密度(165.9人/ha)は当時の鹿児島や大阪を上まわり、東京区部(172.6人/ha)に匹敵する高さだった。名瀬市長期総合開発計画(1969年3月)では住宅整備の方向性として「公的施策住宅は中高層建築を目標」とし、市営住宅では1968年の佐大熊埋立地での建設から中層耐火構造が導入されている。 一方、中層耐火構造の織工アパート(年金福祉事業団の融資住宅)は公営住宅に先んじて1964年から確認できる。両者は制度が異なるものの、公的施策住宅であることに変わりない。相違点は立地である。その違いが生じた背景として、当時の都市計画において大島紬の就労・産業形態が考慮されたこと、その結果として他産業のように郊外への移転、集約化が積極的には検討されなかったことが考えられる。今回はそれを示唆する記述(名瀬市総合開発計画報告書,1971年3月)を発見することができた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
公営住宅と都市計画に関する調査を先行させたため、民間賃貸住宅市場に関するデータの収集が遅れている。
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今後の研究の推進方策 |
民間賃貸住宅市場における織工アパートの位置付けを検討するために、不動産仲介のデータを引き続き収集する。また、織工アパートが都市計画においてどのように扱われていたのかについても資料収集に努め、考察を深める。とくに、1960年代に密度高く職住混在していた名瀬の市街地において、土地利用の純化のために他の産業では郊外への移転、集約・再配置を図る土地利用の方針が推進されていた一方で、紬産業は例外的に異なる過程をたどっていた可能性に着目する。 最終的には織工アパートの成立過程と住宅市場における位置づけを明らかにし、居住資源(ストック)として役割と都市史上の存在意義の両面から、織工アパートの再社会化について考察する。
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次年度使用額が生じた理由 |
不動産情報の収集にかかる現地調査を見送ったことによって生じた残額である。次年度に実施することとする。
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