昨年度は、1930年までの台湾に建設された武徳殿の建設経緯と建築の形式・意匠について明らかにし査読論文にまとめたが、その研究の中で、台湾では1930年代に集中して多くの武徳殿が建設され、その規模も拡大されるとともに、形式・意匠の共通化が進んだこともわかった。そこで最終年度となる本年度は、台湾において1930年代以降に建設された武徳殿に着目し、建設の経緯や建築的特徴について明らかにした。 武徳殿の建設費用については、1930年以前は大日本武徳会の会員の義金(支援金)を充てていたが、1930年代以降の武徳殿は、工費が高騰し寄付金に依っていたことが明らかにできた。そのことは、武徳殿が市民に広く共有される施設として認識され、その建設が地方行政がリードするものとなっていたこを示していると考えられる。 また、武徳殿の設計は、地方行政の技師が担い、州の土木課の技師が中心となり、州下の郡の武徳殿の設計も手がけ、台中州の武徳殿をモデルとする一つのスタイルが生み出されたことを明らかにした。台湾の武徳殿は、入母屋の屋根に、入母屋の車寄せを付加する形式が作られてきたが、それに加えて、外壁を柱・梁を露出させ真壁として、そこに縦長の窓を配置し、車寄せのコーナー柱を控柱とともに3本の構成にするなどの意匠的特徴を持たせたのであった。 武道の再興を目指した大日本武徳殿が台湾で建設した武徳殿は、植民地統治のための日本文化の象徴としての役割を担ったと考えることができる。しかし、武徳殿とは、州や郡の住民にとって必要となる共有施設としての意味をも持つ存在となっていたと考えられる。 以上明らかにしたことを、査読付き論文と、書籍の一部にまとめることができた。
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