研究課題/領域番号 |
17K12358
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研究機関 | 神戸市看護大学 |
研究代表者 |
高田 昌代 神戸市看護大学, 看護学部, 教授 (50273793)
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研究分担者 |
嶋澤 恭子 神戸市看護大学, 看護学部, 准教授 (90381920)
藤井 ひろみ 神戸市看護大学, 看護学部, 准教授 (50453147)
奥山 葉子 神戸市看護大学, 看護学部, 助教 (00511601)
平田 恭子 神戸市看護大学, 看護学部, 助教 (90727314)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
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キーワード | 明治期 / 産婆 / 朱子産婆論 / ドイツ医学 / 産婆學雑誌 / 助産の栞 / 緒方正清 |
研究実績の概要 |
本研究は、「産婆」の名称が変更された背景ならびにその理由、そしてその名称は産婆の役割・責務とどのように関連したのかを明らかにすることを目的としている。 産婆の名称においては、「産婆学雑誌」第63号(明治38年発行)において産科医の楠田謙蔵氏は緒方正清、高橋辰五郎が提唱している「助産婦」に対して、ドイツ語の直訳としているが、ドイツ語の直訳で「産科医」というのであれば、直訳は「産科婦」であるということに納得している。ドイツ語の直訳が助産婦であれば医師は助産医とすべきだと。となれば、なぜ緒方正清らは「助産」を使用したのか、産婆に医師と同様の名称の「産科」という名称をつけることを避けたとも考えられる。緒方正清の編纂していた、『助産之栞』1号では「助産婦の改良に就て」において、緒方氏は「助産婦」の名称を用い、助産婦教育での実地の重要性と助産婦の取締の必要性を述べている。日本における産婆がドイツで出会った産婆(助産婦)との落差があったことが、緒方を「取り締まり」という方向に走らせたと考えられる。しかし、明治当時の産婆の教科書となった「朱子産婆論」はドイツの教科書を訳しているが、日本で発刊される際、第8巻という付録が追加されている。そこには、回転術を中心に知識・技術が詳細に記述されている。つまり、ドイツにおいては産婆が行っていなかった緊急時の対応を日本の産婆が行っており、それを教授する必要性が、この時代の社会にあったといえる。このことから、本来の産婆の技術(わざ)が緒方らには過小評価され、「産科」ではなく「助産」という名称は覆らなかった。その後、楠田は没し、緒方は産婆の組織設立に尽力することによって、「助産婦」の名称が使われるようになり昭和2年の大日本産婆会において、名称改称の提案がなされるに至ったと考えられる。
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