本研究では日本バスケットボールの技術・戦術の変化を李想白の視点からアプローチして彼の技術的関与を明らかにすることであった。 大邱(韓国)の李想白の家族墓地や孫の家などがある敷地の一角に建設された相和記念館・李庄家文化館の調査を行った。そこでは、彼の家系のことや戦後韓国での活動のこと、スポーツでの著しい功績が評価されていたことなどがわかった。 李想白が国際的な活動を行っていたことは、バスケットボールをオリンピック種目にする運動を主導したThe National Association of Basketball Coaches初代会長のForrest C. Allenの2通の書簡に記されていた。これらの書簡は、主にバスケットボールがオリンピックの正式種目に決定した経緯を記した内容であった。Allenの二通の書簡から、李想白ら大日本バスケットボール協会の国際的な活動は認められて、その活動はバスケットボールのオリンピック正式種目の決定に少なからず関与していたと考えられる。 李想白はガードナーによる講習会後に行われた座談会で「アメリカで所謂システム・プレーが出来て、日本の大學でどうしてそれが出來ないかといふことは僕ら随分考へた」と述べていたように、ガードナーの来日以前から日本に「システムプレー」を取り入れようと試行錯誤していたのではないかと思われる。そして、この座談会の席でも最初に「システムプレー」を話題にしたのも李想白であった。以上のことから、システムプレーは昭和8年のガードナーによる講習会を大日本バスケットボール協会が開催したことで導入された戦術であるが、それ以前に李想白はシステムプレーの導入の必要性を抱いていたこと、そして、ガードナーによる講習会を大日本バスケットボール協会が企てたのであるが李想白の意向があったのではないかということが考えられる。
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