本研究では、セノオ楽譜が、大正時代の音楽文化、洋楽受容の様子を実によく反映した楽譜シリーズであることをさまざまな側面から明らかにした。人気の竹久夢二の表紙画ばかりでなく、大衆から好まれた帝国劇場や浅草オペラのレパートリー、来日したりレコードで聴くことのできたりした海外の著名な演奏家の愛奏曲や日本を代表する声楽家の愛唱曲、そして徐々に台頭してきた日本人作曲家の作品など、大正時代の音楽を語る上で欠かせないあらゆる要素と密接に結びついている。セノオ楽譜によって、大正時代の音楽の流行はときに支えられ、ときに創出された。セノオ楽譜の例は、楽譜出版が人々の音楽の趣味に影響を与えることができることを示している。 そして、レコードや雑誌などさまざまなメディアが交錯する中で、セノオ楽譜は出版され、受容された。これは、妹尾の幅広い活動・人脈がその基礎を形成している。つまり、妹尾の多彩な「顔」――若い頃は声楽家として舞台に立ち、作編曲や歌詞の翻訳をしたほか、評論家として音楽雑誌に多くの記事を寄稿、また日本で最初のラジオ放送に携わる、等々――これらの活動が相乗効果を挙げ、日本の音楽界の最高峰で活躍する人々との信頼関係が、彼の活動全体を支えていたのであろう。 この時代の日本では、セノオ楽譜で明確に表れていたように、いわゆる「芸術音楽」や「ポピュラー音楽」といった区別が存在せず、西洋音楽が並列的に受容されていた。セノオ楽譜の幅広いレパートリーを「玉石混交」と言ってしまうことは簡単である。しかし重要なことは、その多種多様なレパートリーがセノオ楽譜の購買者に対して、フラットに開かれていたということである。さまざまな音楽世界が、「素晴らしい芸術音楽」とか「陳腐な流行歌」というような価値判断を伴うことなく、平等に広がっていた。それがセノオ楽譜であり、それが受け入れられたのが大正時代だったのである。
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