本研究はアイルランド出身の劇作家サミュエル・ベケットの演劇作品について、特に後期演劇作品における語りと舞台上の視覚イメージとの関係に注目するものであり、戯曲のテクスト分析に重きを置きつつ、それが上演をどのように規定しているのかをあきらかにすることが目指される。「語り」をその劇構造の中心に置くベケットの後期演劇作品のテクスト分析の理論的枠組みとして「物語論」の手法を導入することで、ベケットの後期演劇作品を包括的に論じる枠組みを確立し、演劇への「物語論」的手法の援用可能性および、「物語論」と同じく現実と虚構の関係性を対象とし、その二重性を演劇の特質と捉える「演劇性」研究との 相互参照可能性を探ることも本研究の目的となる。 初年度となる本年度は、「物語論」に関する先行研究の整理およびその理論的枠組みの演劇への応用可能性の検討を行なった。「物語論」の理論的枠組みは小説を主な対象としつつ、先行研究においてもすでに演劇への応用についても検討されてきた。だが、そのほとんどは個別の演劇作品にその枠組みを適用することを想定していない、いわば演劇一般の構造を対象としたものであり、演劇研究に物語論の成果を導入するには至っていない。また、演劇一般を対象とするがゆえに その構造は静的なものとならざるを得ず、上演の中で現実と虚構との関係が変化していくような作品への応用は難しい。昨年度の研究により明らかとなったこれらの問題をもとに、今年度は別役実やハロルド・ピンターら、ベケットとの影響関係にある作家の作品を中心に、複数の作品を比較検討することで個別の演劇作品に物語論の枠組みを適用するための基礎となる検討を行なった。当初の研究計画では今年度のうちに『あしおと』『オハイオ即興劇』の具体的な作品分析に入る予定だったが叶わなかったため、次年度の課題とする。
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