本研究は、1936-38年に仏領インドシナで展開された労働政策がフランスとベトナムの「国民国家」の形成に強烈なインパクトを与えたとする仮説を実証することを目的とする。 最終年度では、前年度までにフランスの文書館で収集した史料の分析結果を裏付けるため、日本国内の大学図書館に所蔵されている仏領インドシナで発刊された新聞・雑誌を補足的に調査しながら、1937年にハノイではじまった労働実態調査や労働者住宅建設あるいは現地の民間団体などにかんする情報を収集し、そこから(人民戦線政府を中心とする)フランスの社会政策が植民地(仏領インドシナ)にいかなる影響を与えたのかについて分析した。 これまでの研究結果から次のことを指摘できる。フランスは本国で公権力が介入しつつ民間の団体や財団と協力しながら労働者住宅建設のような社会政策を行なったが、仏領インドシナでも同様のモデルに倣って社会政策が実施されようとしていた。ただ、植民地においては官民いずれも組織、財源が十分ではなく政策がスムーズに進められなかった。政策の遅延は植民地の統治や治安維持の観点から労働者層を警戒する植民地権力の姿勢も関係していたと考えられる。労働者層に配慮を示しつつそれを警戒するのは19世紀以来のフランスの伝統的な姿勢でもある。他方で、ハノイではこれまでに存在しなかった労働者住宅の建設や役割に理解を示す住民が少なからずいたことがわかった。1930年代後半においてハノイの住民はフランスモデルを取り込みながら新しい国民国家が建設される可能性まで射程していたと考えられるが、結局、植民地の独立を恐れたフランスは住民の期待に応えることはなかった(できなかった)。仏領インドシナで展開された労働政策が、一方でフランスに対して国民国家のあり方を再認識させ、他方でのちに独立するベトナムの独自の国民国家のあり方を導いたといえる。
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