研究課題/領域番号 |
17K13568
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研究機関 | 駒澤大学 |
研究代表者 |
角道 亮介 駒澤大学, 文学部, 講師 (00735227)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
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キーワード | 中国青銅器 / 西周 / 都城 / 周原遺跡 / 祖先祭祀 / 血縁の解体 |
研究実績の概要 |
中国・西周時代の都の性格とその構造を明らかにし、中国の都城発展史における基礎的な資料を提供することが本研究の目的である。 平成29年度は、①周原遺跡での発掘調査に参加し新たな資料の収集に努めるとともに、②周原遺跡内での踏査を行い、城壁・宮殿区・手工業区・墓区などの位置関係を整理・検討した。 ①について、周原遺跡の中の斉鎮村地点において、北京大学考古文博学院・中国社会科学院考古研究所・陝西省考古研究院が合同で行っていた発掘調査に、平成29年10月12日から19日までの期間参加し、斉鎮村の宮殿遺構の広がりを確認するとともに、そこから出土した新出資料の収集・分析に努めた。斉鎮村発掘地点においては西周の土層から散水(大型建築物の外周に巡らせた栗石の列)が確認され、当地点にも大規模な建築遺構が存在したことが明らかとなった。遺物には空芯磚や瓦片などがあり、鳳雛村地点・雲塘村地点に準ずる宮殿があったことが想定される。 ②について、鳳雛村地点を中心に広がる城壁の痕跡と、それよりも東に散布する雲塘村・召陳村の宮殿遺構の間に時間的な差が存在することを確認した。現状の発掘成果に基づけば、周原遺跡は西周前期の段階で鳳雛村を中心に宮殿・城壁が築かれた一方で、中期以降に東側の雲塘・召陳の方面に拡張された都市であることが推定される。さらには出土した青銅器の銘文から、両者の宮殿区を利用した集団にも一定の差異が認められた。周王朝の中心を担った集団が鳳雛村の宮殿区を集中的に利用した一方で、西周中期・後期になって新たに王朝に組み込まれた外来の集団は雲塘・召陳の宮殿区を利用していたようである。周原遺跡は複数集団の集住の結果拡張されながら形成された都市遺跡であり、異なる血縁集団の混交と解体の過程が、西周期に行われ始めたとみるべきであろう。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
北京大学考古文博学院・中国社会科学院考古研究所・陝西省考古研究院との連携も問題なく、周原遺跡斉鎮村地点での発掘調査、および周原遺跡内の踏査も順調に実施できた。研究計画はおおむね順調に進んでいるといえる。
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今後の研究の推進方策 |
平成29年度の調査で得られた知見をもとに、周原遺跡の性格と、他の都城遺跡(豐鎬遺跡・洛陽王城遺跡など)との性格の比較検討が必要である。 平成30年度は、豐鎬遺跡との比較を行い周原遺跡の都城としての性格を検討したい。これまで西周時代の城壁を持つ遺跡はほとんど確認されておらず、当時の遺跡分布からみれば僻地といえるような地点に孤立して建つ城壁遺跡と、平成29年度の研究で明らかになった、城壁外にも核心地が広がる特異な性格を持つ周原遺跡しか明らかとなっていない。現在、豐鎬遺跡では大規模な発掘調査は行われていないが、それゆえに近年の出土資料を網羅的にまとめた研究は少ない。当遺跡における出土遺物の整理・再検討を行い、周原遺跡との共通点・相違点を検討する予定である。 文献記載に基づいて「西周の都」とされてきた豐鎬遺跡であるが、周原遺跡のような集団の統合が行われた特殊な性格を有するのか、あるいは地方的な防衛拠点に過ぎないのか、を検討することは、西周王朝の実態と都城の発展を検討するうえで意義ある成果を生むものと信じる。
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