近年の生体分子の気相分光は、ESI法を利用した安定で非破壊的な気化法の確立に伴い、飛躍的な進歩がみられる。現在では分子量が約1000程度のペプチドに対して、ESI法と赤外分光法を組み合わせるアプローチが主流となっているが、タンパク質レベルの大自由度系にこれを適用するには未だ十分な分光法となっていない。そこで本研究では大自由度系に適用可能な新たな気相分光法として、液滴分子線赤外レーザー蒸発法を用いた気相蛍光/ラマン分光装置を開発した。具体的には、これまで用いていたイオントラップ/加速電極部に設置されているリング電極上部に得られた蛍光/ラマン散乱光を集めるレンズ、プリズム、コリメーターレンズを設置した。また光ファイバー、フィードスルー、ロングパスフィルターを介して、これらの光を分光器(ホトマル検出)に導入した。この装置を用いてヘムタンパク質として知られるミオグロビン2価正イオンの共鳴ラマンスペクトルを気相で測定することに成功した。 本研究では、pH7.0の中性条件とpH2.1の酸性条件で調整した試料溶液を用いて、気相共鳴ラマンスペクトルと水溶液中での共鳴ラマンスペクトルの比較を行った。一般的にpH 7.0の水溶液では、ミオグロビンヘムの鉄原子は3価の高スピン状態(S=6)となり、6配位型の構造となる。しかし、気相中ではヘム中の鉄原子が入射レーザー光による光還元のため、2価の低スピン状態、6配位型の構造となることが明らかになった。一方、pH2.1の酸性条件のミオグロビンは、水溶液中ではポルフィリン環との配位のみの4配位型構造を形成することが知られており、この状態ではタンパク質のアミノ酸残基との配位結合が欠損した状態(変性状態)になることが分かっている。しかし、気相中ではヒスチジン残基との配位結合が回復し、天然状態に近い構造へ変化することが明らかになった。
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