本研究の目的は、体育授業において指導言語が児童・生徒に伝わるとは如何なる事象であるのかを明らかにすることであった。この目的を達成するために、従来の指導言語研究の方法論を批判的に検討し、それら諸研究が記号的言語観をその前提に有していたことを指摘した。この記号的言語観が暗黙の前提とされてきたために、体育教師が指導言語を発話するという事象は論じられてこなかったのである。 メルロ=ポンティの言語論は、この発話に特化して展開されている。彼によれば、発話は身体的所作であり、それは内的な思考の結果を言語という記号に置き換えて表出することではない。それゆえ、発話は個々人の身体的な能力の現れであり、それ自体が意味を帯びている。この視点から体育教師の発する指導言語を捉えることによって、以下の事柄が明らかになった。 体育教師が指導言語を発するという事象を理解するためには、指導言語の語義ではなく、むしろ身体に着目する必要がある。そのレヴェルにおいて、身体的所作としての指導言語の発話は、児童・生徒に〈ふれる〉のである。この〈ふれる〉ということは、単なる比喩ではなく、身体的所作としての指導言語が伝わることを示している。体育教師の指導言語の発話をこのように理解するならば、それが児童・生徒に〈ふれる〉という事象は、身体的な事象として理解された。それは間身体性のレヴェルで生起する。このことは、体育教師の無自覚的な行為に現れている。例えば、体育教師が児童・生徒に話を聞かせるとき、目を向けさせる指示は、その記号的意味が重要なのではない。なぜなら、眼球を注視することは実践的意味を持たないからである。むしろ、その指示によって、体育教師の指導言語を受け取ることのできる、生徒の身体的なある在り方を生成している。その身体的な在り方によって、体育教師の〈指導言語〉は児童・生徒に〈ふれる〉ことができることが明らかになった。
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