本研究の目的は、(A)書記における個の問題、(B)藤原定家の用字法の享受実態、これらを解明することである。日本語の文字・表記研究の分野ではともに重要なテーマであるが、解明は容易でない。書写資料の調査をしたところで、親本表記の影響が想定されるため、個人の用字の特徴を明確にできないからである。しかし、今川了俊の場合、自筆書記資料、自筆書写資料の双方が現存しており、個の用字法の解明が可能と考えられる。 (A)書記における個の問題の解明 文字・表記研究の根幹にかかわる、個の問題の解決へ向けたアプローチとして、今川了俊自筆本『厳島詣記』(書記資料)および自筆書写本『源氏物語』(書写資料)の文字調査を行った。当初の予想どおり、これらの資料間の用字傾向は完全には一致していないことが確認された。さらに、一方の資料にのみ見られる仮名字体の存在が明らかになった。書記資料にのみ見られる仮名(字体)は筆者の意思、書写資料にのみ見られる仮名(字体)は親本表記の影響によるものと推測される。 (B)藤原定家の用字法の享受実態の解明 定家の玄孫、冷泉為秀を歌道の師とする今川了俊は、冷泉家歌学を体系づけた。また、了俊の著書『言塵集』には定家著『下官集』所載の「定家仮名遣」の実例を示す箇所が引用されている。したがって、了俊は定家仮名遣を遵守する意識が高いように推察される。ところが、彼の自筆本『厳島詣記』の仮名遣実態においては表記規範意識の連続性(定家仮名遣の遵守)が認められなかった。 その他の成果として、『厳島詣記』に見られる「伯」(2/2例)は、現代の用字では「泊(とまり)」とあるべきものであることが確認された(書陵部蔵の2種の伝本では「泊」)。また、『厳島詣記』の諸伝本には「うた津」の景観を記した部分(3月7日)に1行分(約10字)の欠落があることが判明した。なお、現在、(A)を中心に取り扱った論文を執筆中である。
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