研究課題/領域番号 |
17K18518
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研究機関 | 防衛大学校(総合教育学群、人文社会科学群、応用科学群、電気情報学群及びシステム工学群) |
研究代表者 |
尾崎 貴久子 防衛大学校(総合教育学群、人文社会科学群、応用科学群、電気情報学群及びシステム工学群), 総合教育学群, 准教授 (00545733)
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研究期間 (年度) |
2017-06-30 – 2021-03-31
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キーワード | 回回薬方 / 明代中国 / モンゴル / イスラム医学 / 医学史 / 東西交流 / イブン・スィーナー / 医学典範 |
研究実績の概要 |
本研究は、イスラム医学の東への伝播を示す唯一の証拠である漢語イスラム医学書『回回薬方(以下『回回』)』を対象に、その残存4巻(うち1巻は目次巻)の内容から、元代明代におけるイスラム医学の理解と実践の実相を検討する実証的史学研究である。交付1,2年次において、『回回』の残存巻中の3書の内容は、9・10世紀のアラビア語イスラム医学書の内容を引用元としていることを明らかにし、調剤レシピの対訳データベースの作成に着手した。3年次は、第12巻の中風部門(全身麻痺、顔面神経麻痺、半身不随などの麻痺症状)、第34巻の外科部門(傷損・骨折・焼灼)の全項目の解読を完遂させた。第30巻の約200種の調剤レシピのデータベース作成を継続した。『回回』と中世イスラム医学書との内容比較から、以下を明らかにした。(1)腹部縫合の手術(第34巻折傷門所収)は10世紀のイブン・スィーナー『医学典範』の記述を引用元とする、(2)焼灼治療の記述(第34巻鍼灸門所収)は、10世紀アッバース朝宮廷医マジュースィーの『医学完全』を引用元とする、(3)第12巻中風に関する記述(第12巻衆風門所収)は、現存するアラビア語医書のいずれと比較しても、その分量は遙かに凌駕しており、内容も多岐にわたる。この状況から『回回』は、今日の中東地域では逸失した中世イスラム医学書類の豊富な情報を遺している点において、いわばイスラム医学における『医心方』といえる資料価値を持つこと、である。加えて、調剤レシピ(第30巻)においては、複数の翻訳文体が確認され、『回回』の編纂時にはすでに複数のイスラム医学書の漢語翻訳書が中国に存在していたことがわかる。上記はいずれも、アラビア語原典と漢文との一字一句の比較対照により明らかになった。史学研究において典型的かつ地道な作業だが、史料の多面的な特質を照射するには極めて有効な検証法であると改めて確信した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
第12巻、第34巻の文献解読・比較検証を引き続き行い、第 30 巻の約200の調剤処方の検証を進め、引用元の医学書の新たな発見をめざした。第12巻については麻痺に関する言説(病因論・治療法・軟膏類調剤法)の解読を完遂した。この巻の記述分量は、現存する中世イスラム医学書における中風に関するそれを大きく超えており、引用元の同定には、内服薬・点鼻薬・湿布薬類の処方に着目して検討を行った。現時点においては、湿布薬の数品とイブン・スィーナーの『医学典範』のレシピの一致を発見した。第34巻の腹部治療については論文をまとめた。焼灼の内容の一致については、10世紀マジュースィーの記述と一致していること、10世紀後ウマイヤ朝の宮廷医ザフラ―ウィーの『医学詳解』には、このマジュースィーの記述に焼灼部位の指示や使用器具の形状を説明した図版が増補されていることを発見した。この発見については研究会発表を行い、東アジアの鍼灸と中東、ヨーロッパ地域の焼灼の特質について意見交換を行った。第30巻の約200の調剤レシピに関しては、9世紀サーブール・ブン・サフルの処方箋集、10世紀の『医学完全』、『医学詳解』に同一レシピを多数見出し、使用薬材の対訳データベース(漢語、アラビア語、英語)を引き続き作成した。一方、『回回』編纂時と時代が近い11~13世紀の医学書・薬局処方箋・薬物辞典を対象として調査を行った(12世紀のアイユーブ朝スルタンのサラディンの侍医イブン・ムトゥラーンの『医術の庭園』、アフガニスタンの医学者アル・サマルカンディーの『薬局方』、13世紀後半のクーヒーン・アッタールの『薬局提要』)である。しかしながら、レシピの一致はあまりみられず、『回回』の引用文献の候補から外し、イラン・インド地域のペルシャ語医学書や薬局方類を検討の対象として射程に入れ始めたところである。
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今後の研究の推進方策 |
文献解読・検証を引き続き行う。第12巻の麻痺治療については主たる引用元の発見を目指す。第30巻については、10世紀エルサレムの医師タミーミーの『医学の存在』と11世紀バグダードのイブン・ジャズラの『医学提要』の処方レシピとの照合をおこなう。第34巻の外科論考については、13世紀シリアの外科医イブン・アル・クッフの『外科の柱』の情報の相関性を検討する(校訂書を所蔵機関より取り寄せ済み)。 交付3年次の調査では、11世紀以降のアラビア語文献との相関性を見出すことができなかった。そこで今年度は、11世紀以降の中央アジア、インド、イランで編纂されたペルシャ語の医学書類を調査対象にする。従来、ペルシャ語の医学書は、イランやインドの各地に手書き稿本の所蔵が確認されているものの、その取り寄せは極めて困難であった。近年、イランから医学写本の校訂や影印本の出版が相次いで行われるようになり、できるかぎり入手に努める。アラビア語の医学書についても、新たな写本の発見に努める。今年度は新型コロナウィルスの流行により海外調査が難しいため、世界各地の図書館・文書館の所蔵目録を活用し、図書館相互利用サービスの積極的な利用によって、写本データや校訂本の複写を収集する。 また『回回』の成立背景としての歴史的社会状況の検討に着手する。現在着目するなかに、「鶴頂丹」という名の薬がある。この薬は、明代初期に王朝の命により編纂された医学百科全書に、同名同レシピを確認することができた。この発見は『回回』編纂者らが同時代の中国医学書を参考にして、有用と確認されたものを引用したことを示している。いわばこの時代の中国でのイスラム医学と中医学の交流を端的に示すものであろう。また「回回医」あるいは「回医」と記述されるイスラム医学の医師に関して、漢語資料から確認することで、『回回』の編纂者らの在中国で活動を明らかにすることも目指す。
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次年度使用額が生じた理由 |
海外の図書館および本屋に注文している書籍が、諸般の事情により(イラン紙不足)により入手ができなかった。
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