『回回薬方』の残存巻の一つである第30巻の調剤処方レシピ集に焦点を当て、資料の解読・引用元の原典の調査と探索を引き続き行った。その成果は以下4点である (1)第30巻の引用元を発見した。その書は、11世紀のペルシャ語医学書『ホラズムシャーの宝庫』である。この書は、ホラズム朝スルタンに献呈された医学百科事典である。当該巻所収の約200あまりのレシピのほぼ半数は、この書のレシピの一語一句の逐語訳であった。この発見は、これまで申請者の知る限りにおいて、従来の研究では指摘されていない。また『回回』の成立背景であるイスラム医学の東への伝播と定着に新たな視点を照射するものである。というのも今回の発見は、『回回』におけるペルシャ語を介してのイスラム医学書の漢語翻訳の可能性を明らかにしたためである。 (2)『回回』と『ホラズムシャーの宝庫』との師承関係が明らかになったことにより、同一レシピの比較分析からの薬剤・薬品名、医学用語のペルシャ語・漢語対応表の作成に着手した。 (3)同時代の中国医学書との師承関係も明らかになった。同巻所収の「鶴頂丹」のレシピは、明初の医学書『普済方』所載のものと一致した。また比較検証によって、『普済方』のレシピが引用元であることを明らかにした。このレシピの存在によって、在中国のイスラム医学者らは、同時代の中医学での薬品処方をも参考にし、彼ら自身の治療に取り込んでいたことが明らかになった。背景には、イスラム医学者と中国医学者らの交流もあったことがうかがわれよう。 (4)ペルシャ語医学書との師承関係があることを発見したことで、他の12世紀以降のペルシャ語医学書類の調査と収集、資料の読み込みが新たな課題として浮かび上がった。まずは所蔵調査を行い、そのほとんどは写本状態のまま、イラン・インドの各地の文書館に所蔵されていることを把握した。
|