北方ユーラシア諸民族の動静は、世界の歴史を動かした原動力の一つと言っても過言ではない。その理由には、この地に誕生した王権が中国歴代王朝と和戦両面でかかわりを持ち、その興亡に大きな影響を与えたことと、洋の東西を結ぶルートの中央に位置し、相互交流に大きな影響を与えたことがあげられる。 そのなかでもモンゴル帝国(西暦1206-1388年)の成立は、当時のユーラシア全体に大きなインパクトを与えた。強大な軍事力で瞬く間に巨大な版図を築いたその国には残虐・殺戮といったマイナスイメージがつきまとうが、それは一面だけからの理解である。既存の宗教を認め、民族融和にも努めるなどプラスの面も多々ある。ユーラシアを一体化したことは、のちの大航海時代のプロローグと、またはグルーバル化の先駆けとしても評価されている。 モンゴル帝国は上記のように史上名高いが、肝心の王権成立の背景と、その舞台となったモンゴル高原の当時のようすは不明である。とくに初代君主チンギスカン(1162-1227年)についての事績は、まったくといって良いほど不詳である。その原因は、伝説的な内容の史料が多く、同時にペルシャや中国といった外部で書かれた二次的評価の入ったものが利用されてきたという文字中心の研究にあるといえる。その結果、彼に対し「カリスマ」「凶悪な統治者」といった実証的でない解釈が流布することになった。ひいては実際とは異なる時代像が形成され、当該研究の停滞の原因となっている。 このような文字資料に基づく研究の限界性を克服するために、本研究では物質資料に基づいて検討を行う。それはつまり考古学的手法によるアプローチである。 本研究における着眼点はつぎのようである。その時代は中世温暖期が終り環境悪化が始まったとされる。しかも、もともと資源が乏しいモンゴル高原で、どうして強力な王権が誕生したのか。その興亡のメカニズムを、植物考古学や動物考古学、理化学的分析を駆使した環境考古学的アプローチで解明しようというものである。 しかしながら、モンゴル遊牧王朝興亡史を自然環境変動によって解明しようという研究は以前にもあった。ただ、これらは環境(気候)が良くなれば王朝が勃興し、悪くなれば衰亡するという、表層的理解、いわば環境決定論的なものであった。 本研究とそれとは明らかに違う。そこで目指すものは単なる環境決定論ではなく、人間と自然系とのかかわり、相互作用からこの問題を捉えようとしている。このような人間活動というところに力点を置いている点に、本研究の独創性がある。
|