(1)第二次大戦期の日本語教育振興会の活動についての再評価を行うため、その継承組織である(財)言語文化研究所に残存する「振興会理事会記録」のデータベース化を行った。 (2)その結果従来文部省が指導性を発揮し設置したと理解されてきた日本語教育振興会は、興亜院(後に大東亜省に改組)の強い要請により曲折を経て成立したことが判明した。 (3)1930年代後半は日本語教育の国策化が急速に深まる時期であるが、それは文部省に始まるのではなく、興亜院から始まる。日本語教育をどう推進させていくかも文部省ではなく、興亜院の『日本語教育要綱』(1939.6)に端を発し、文部省の『ハナシコトバ』予算の獲得につながっている。 (4)また日本語教師養成科目構成においても興亜院の要求が振興会に及んでおり、第二次大戦中は興亜院も振興会も共に「日本精神の錬成」に重点を置く。 (5)文部省系の日本語教育振興会が第二次大戦後に初めて「日本語教員養成講座」を行うのは、終戦直後の1945年秋であり、その科目構成は言語学的内容・教授法に重点が置かれるように激変する。終戦後数ヶ月の間に変化することは、大戦中の振興会の教師養成科目構成が自らの意志であったとは肯定しにくいことになる。振興会の公的な活動の裏で、公的な活動とは異なる意志をもった人材が存在し、彼らが戦後の振興会言い換えれば戦後の日本語教育を指導していったと看做さざるを得なくなる。
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