宮殿の建物配置を星座に擬することは秦の始皇帝の時から始まったが、その後も漢の未央宮、三国時代魏の景福殿、霊光殿などが宇宙を象ったことを『文選』賦篇などに窺うことができる。魏の大極殿は北極星に擬え、唐長安城の太極限も同様であった。このように宮殿の造営は宇宙を象るものと知られていたが、古代日本ではどうだったかは不明であった。 大極殿前の〓積擁壁は複雑な形状を成す。検出遺構から設計方法を検討すると、大極殿中心のやや北寄り(高御座)を中心に240尺、280尺、320尺の同心3円を描き、後殿前に中心をもつ360尺の偏心円との交点などを用いて形状を決定している。複雑な設計方法であるが、キトラ古墳の石室天文図とモチーフは同じで、同心3円は内規(周極星の範囲)・赤道・外規(観測点における南天の限界円)、偏心円は黄道を意図したもので、40尺の倍数を用いた規則性は天文秩序を意図している。古代日本も宮殿は宇宙を象るという思想を学び、奈良時代前半の平城宮第一次大極殿院も宇宙を象ったのであることが実証できた。 正面の擁壁の高さは8尺で、3尺転ぶ勾配をなしているが、3と8はともに五行思想で"日の正位"東に配当される数宇であり、日のイデオロギーや、三足烏の八咫烏と関わる。高御座は天地間の往来の可能な場所であり、記紀の国産み神話の"天の御柱"を具現していると理解できるのである。 これらは天下支配の正当性の根拠を天上界に求め、宮殿と玉座はそれを誇示し、国家の勢威を示すものであった。 また、他に回廊の長さの数値や出土瓦の意匠などが易や天文、暦などで意味をもつものであることを指摘し、それは国家の安寧を祈願したものと推測できた。
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