中国における宮殿の造営の思想は、星座の配置を象るものから『周礼』に基づくものへ南北朝期に変化するという(渡辺信一郎「六朝隋唐期の太極殿とその構造」『都城制研究(2)』奈良女子大学)。日本で大極殿が成立した時には、中国では唐の時代、後者にあたった。既に明らかにしたように、平城宮第一次大極殿前庭の〓積擁壁は大極殿の中心のやや後方、高御座の位置を中心にした同心3円と偏心円の交点を用いたもので、キトラ古墳石室天文図同様に宇宙の構造を描いたものであった。一方、〓積擁壁の位置が示す地割りの比率が天地を象徴する数、9:6であるなど、両方の設計思想を窺うことができた。大極殿やその庭における遺構や荘厳具についても同様の分析を試み、理解を深めることができた。それについては分析途中でもあり、最終報告で述べることとするが、設計者が意図したものは天地、陰陽の調和で、それによる天下の安寧を願ったと言える。 大極殿院の設計思想の延長で高御座の復原を試み、既存の模型や現存のものとは異なる案の詳細を検討することができた。奈良時代の高御座は記紀神話を具現している可能性が一層高くなった。 宮殿遺跡の活用関係では、韓国朝鮮王朝時代の景福宮における常参儀の見学、茶礼を活かした遺跡の活用研究会参加を果たし、伝統文化を活かした遺跡の活用の重要性を改めて認識した。また、これらを実施している韓国文化財保護財団の研究者の講演録を翻訳した。
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