(1)「留学生」とは、一般的には修学・研究を目的に国家間を移動する学生を意味するので、植民地宗主国と植民地間を移動する学生を「留学生」ととらえることには、異論がある。つまり、後者は同じ統治権下の学生の「進学」と考える考え方である。しかし、本研究では、文化・言語従って民族を異にして移動する場合も「留学生」としてとらえることにした。 (2)台湾、朝鮮そして「満洲国」からの日本にやってきた学生も意識としては「進学」であったかも知れないが、植民地総督府当局も一時期までは「留学生」として扱い、後に「在内地学生」と称するようになった。(3)その結果として、台湾、朝鮮、そして「満洲国」からの「留学生」は、大学や東京高等工業学校等の専門学校等の「高等教育」段階だけでなく、中等教育や初等教育段階にも及んだ。日満工業学校がその例である。 (4)特に、工業・工学分野においては、中等レベルの工業学校への留学が1930年代以降に目立つようになった。 (5)それ以上に大きな存在は、各種学校への留学生である。各種学校には、中等レベルと中等後レベルの2つのコースを持つものが少なくなかった。例えば、工学院(現・工学院大学)、東京高等工学校(現・芝浦工大)、武蔵高等工科学校(現・武蔵工大)、電機学校(現・電機大学)、聖橋高等工学校(現・埼玉工大)などであった。これらの各種学校が工業・工学教育機関として、日本人だけでなくアジアからの留学生を受け入れていたことの発見は大きな成果であった。この各種学校修了者の事例研究(聴き取り)を行った。
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