研究概要 |
戦後期のサハリン州は長期にわたって外国人の訪問に門戸を閉ざしてきた。1980年代後半からの全ロシア規模での改革運動(ペレストロイカ)は、サハリン州が周辺諸国・地域(まずもって隣接する北海道)との地域間国際交流を積極的に求める契機となった。門戸の開放はまた、北海道のトロール漁業に従事する漁業協同組合などが、ソ連水域での操業機会の拡大をめざして、サハリン企業と合弁会社の設立を目指す機会を与えるものであった。しかし、合弁企業の多くはサハリン州・北海道の双方からの参加者の企業経営に関する認識の相違から短命で終わった。今次研究プロジェクトでは、ペレストロイカに先立つ時代に、サハリン州における日本(北海道)に対する、また日本(北海道)でのサハリン州(ソ連)に対するイメージの形成がどのように行われていたかを、サハリン州立公文書館およびサハリン近現代史資料センター(旧共産党文書館)に所蔵される文書を精査することによって、1970年代後半に北海道のほとんどの市町村議会で「北方領土返還決議」が採択された時期に、サハリン州内ではソ連共産党サハリン州委員会の指導の下、サハリン州内の各地方紙において「日本(北海道)における報復主義の高揚を警戒する」キャンペーンが展開されたことを明らかにすることができた。これは日本(北海道)では「北方脅威論」が強調されていた時期と時期的に重なる。サハリン州で「日本の報復主義」(=領土返還要求)が強調された時期の共産党サハリン州委員会の幹部の多くは、1991年のソ連共産党崩壊の後には、州行政府や民間ビジネスに転進したことも明らかになった。失敗した合弁企業の若干についてのケーススタディーでは、サハリン側の役員に旧共産党幹部が含まれており、単なる企業経営に関する認識の相違だけではなく、共産党幹部として日本に対して否定的な世論形成に積極的に関与し,た旧幹部が日本に対する警戒心を根強く持っていたことも、1980年代末からの両地域の経済交流の発展にとって無視できない障害となっていたことが立証された。
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