本年度は、世親の『浄土論』および曇鸞の『浄土論註』を主たる研究対象にさだめ、世親の浄土教と親鸞思想との関連を討究した。主な研究成果は以下の通りである。 (1)世親の『浄土論』は、すべての衆生を仏へ誘おうとする大乗菩薩思想(「度衆生心」)をその基本にすえており、阿弥陀仏の誓願によってもたらされる浄土の「聖衆」としての菩薩に加えて、そうした菩薩存在に連なる働きをなす菩薩を「願生」の菩薩として要請し、「五念門」という行の体系を導いていた。そこでは衆生は「五念門」という厳格な修行によってはじめて「願生」の菩薩たることができ、その成就を阿弥陀仏の浄土に託する存在であった。 (2)曇鸞の『浄土論註』はそうした世親の思想をふまえつつも、そもそも菩薩の「願生」それ自体(「願作仏心」)が阿弥陀仏の誓願によって支えられて初めて可能な事柄であるとの理解を示しており、その意味で阿弥陀仏の「他力」がより前面に押し出されていたが、そこにはなお「五念門」を行じる主体としての性格が残されていた。 (3)親鸞は「五念門」の体系における行の主体としての性格をすべて阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩のそれと捉え直すことから出発し、誓願に結実した阿弥陀仏の功徳力にひたすら与ることによって往生を遂げてこそ(=「往相」)、はじめて自在な衆生救済(=「還相」)が可能になるものと受けとめた。また、本来は"色も形もない"阿弥陀仏の「法身」という理解や、さとりそのものの世界という浄土の理解においては、世親や曇鸞を強く継承しており、そうした性格(=「無相」性)こそが自由自在な衆生救済を可能ならしめると解されていた。 このように、大乗菩薩思想は世親・曇鸞・親鸞の三者を貫く根本性格でありつつ、曇鸞において、阿弥陀仏の「他力」が比重を増し、親鸞において「真実信心」こそが凡夫の「自利」および「利他」を可能にする根拠と解されるに至ってさらに徹底化されたものと考えられる。
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