昨年度までの研究において、インド浄土教の祖師とされる龍樹、世親各々の思想構造における浄土や酊弥陀仏の位置を検討し、浄土教が「大乗菩薩道」として担う意義を解明してきたが、本年度は研究の最終年度としてこれまでの研究成果を踏まえつつ、インド浄土教が親鸞の思想形成においてもつ意味を討究した。 「大乗菩薩道」を標榜するインド浄土教において、龍樹が「易行」と説き、さらに世親が「五念門」の体系へと整えた往生の修行法はなお往生を願う浄土願生者に厳しい自覚と志とを求めるものであった。これらの浄土教思想は中国の浄土教者である曇鸞を媒介にして日本浄土教へと継承されたが、曇鸞による阿弥陀仏の誓願力の強調は行者が浄土を願生すること自体のうちに既に阿弥陀仏の「他力」が及んでいるという独自の理解をもたらし、親鸞の「他力」理解に深い影響を与えた。とはいえ、なお行者は、みずからが往生を期して「五念門」の行に邁進するという意味で、「願生」の菩薩であった。 ところが、衆生を器量の劣る「凡愚」とみなす親鸞において、阿弥陀仏の「他力」の本質は、本来衆生が修めるべき「五念門」の行体系を阿弥陀仏自身が十全に成し遂げ、その功徳を衆生にむけて差し向けているというところにある。親鸞において、あらためて「信」が重い意味を持ち、またそれまでの「五念門」において仏や浄土を観想する「観察」行とされていた「観」が、阿弥陀仏の本願の謂われに対する「聞」へと変容してくるのは、まさにこの<行>主体の転換においてであり、そこには「願生」の菩薩たることへの断念がある。「聞」はまた、過去久遠劫来「自力」による流転を重ねてきた自己に対して「方便」として差し伸べられた諸仏・諸菩薩のはたらきに対する思いをも含み、阿弥陀仏の誓願へと自らを押しやることで、ともすれば「自力」へと顛落しがちな「信」を立て直す意味をもにない、「来迎」や「正定聚」についての独自な理解や、「宿業」という自己理解を導いてもいる。 以上の論証を通じて、インド浄土教を経て形成された親鸞の思想は、すべての衆生に対する「大慈大悲」を実現せんとする「大乗菩薩道」思想のひとつの極点であることを示し得た。
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