日本人の音感覚、特にある種の自然音(例えば、風の音、虫や鳥の鳴き声等々)に対する感覚には季節との繋がりを感じ取るというような独自性が見られることがしばしば指摘されて来た。その原因として既に四半世紀以上も前のことになるが、大脳生理学者角田忠信によって大脳機構説、即ち西洋人の場合そのような自然音は雑音として大脳の非言語半球において処理されるのに対して日本人の場合は有意味な音として大脳の言語半球において処理されるという特異性の存することが科学的に実証されることが主張され、この解釈は世間にも広まることになった。しかしながら、この大脳機構説は当時小学生であった彼の子供には当て嵌まらなかったという彼自身の証言がヒントとなって、本研究代表者はある種の自然音に対する日本人の嗜好は大脳の機構の特異性によるものではなくて、文芸的伝統によって培われ間主観的に形成されて来た文芸的美意識によるものであると考えるに至った。本研究ではこの考え方を古典的文芸作品に基づいて実証すべく、「万葉集」、「古今集」を始めとする和歌集、「源氏物語」全五十四帖および「平家物語」、松尾芭蕉全発句および紀行文「奥の細道」等々のような日本の代表的な古典的文芸作品における音感覚を精査・分析することを通じて、日本人の音感覚の独自性は文芸的な美意識の伝統と、家屋の構造および生活形態(旅、隠居、男女の離別等)によって育まれてきたものであることを解明した。
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