17世紀初めから19世紀半ば頃までの琳派作品受容の実態について、注文者の社会階層、注文の目的、作品の用途と社会的機能、絵師の身分と活動状況、地域(主に京都・江戸・大坂)、時代の変化(政治・経済など)、都市文化、などの視点から分析し、それらと琳派作品の、主題、画題、画面形式、造形的な様式などとの相関関係を考察した。それは琳派様式の継承と展開を、いわば社会的な視点から見直し、江戸時代の社会のなかで琳派作品が担った役割と位置付けについて検証しようとするものである。目下、収集したデータの分析整理を急いでいる最中なので、およその分析上のフレームワークを下記に示す。研究は便宜上、(1)17世紀前半の京都を中心とした俵屋宗達らの活動、(2)17世紀末から18世紀初頭にかけての尾形光琳らの京都と江戸での活動、(3)19世紀初頭の江戸における酒井抱一らの活動、の3期に分けて行っている。(1)-基本的に京都に基盤を置く宮廷・公家・上層町人が、宗達画の支持層であった。宗達画のなかには寺院に伝わったものも多いが、それらとて、町人層や公家の経済力下にあったと言っても過言ではない。(2)-光琳の時代には、宗達画のパトロンとなった上層町人や公家は、もはや宗達の時代のように光琳に金屏風を注文できるような状態ではなかった。光琳の江戸行きは、新しいパトロン(注文者)を武家関係に求めることが主な目的であった。少なくとも光琳の金屏風は大半が大名家に伝わったものであった。ちょうど江戸時代中期は武家が和風なるものを求め始めていた時期でもあった。(3)-抱一は、宗達光琳が上層町人階級に属していたのに対して、大名家の出身であった。ところが抱一のパトロンには、上層の武家階級もいたが、むしろ江戸近郊の中流町人層が重要な部分を占めるのが興味深い。こうしたパトロンの社会階層の変化は、絵の質(画題・形式・様式的な特徴)へ重大な影響を及ぼしていった。
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