本研究は、従来あまり論議に上げられることのなかった<音色>の言語表記(楽音、もの音の言語記述)を、美学および美的レトリックの次元から論述したものである。具体的には、(1)音楽の大衆化に合わせて近代に大きな発展を遂げたピアノの音の差異と、(2)『万葉集』に歌われるさまざまな音の言語表現、とを中心素材し、これらを色彩のレトリックのあり方と照らし合わせながら、修辞学的な分析を行った。 音の言語表記にまつわる論争が、色や形のような視覚的・造形的分野に比べると格段に少なかった理由の裏には、音の言語化が、結局のところ、共感覚的隠喩に頼るほかなかったことがある。日本語で「音色」を<音>の<色>と書くこと自体、音色が共感覚的にしか表現できないことを暴露している。そこで本研究では、<色>の言語表現の構造とともに、同じように共感覚的な隠喩を駆使することでしか表せない<味覚>の表現を1つのモデルとしながら、種々のメーカー(機種、年代)のピアノ音の表現仕方を比較・分析した。(このため大東文化大学において一般学生を対象にアンケート調査を実行。)次いで『万葉集』の音色表現を取り上げた。結果だけを言うなら、万葉集の音の言語記述には予想した豊富さはなかった。その理由のひとつは、万葉集自体がそもそも音の響かせ方を創作の目的とうる<うた>であり、<歌われる>ものであったこと関連している。万葉集の中には鳴く鳥、虫、波や川、水、木々の触れ合う音、合図で鳴らすもの音、声、空気や風の音などが登場する。しかしそうした語表現は音色としての音そのものの様態を表記するのではなく、語音に照応する歌い手の心の反映としてのレトリックなのである。 この研究を通して、音色の表現に潜む<情>、主体の心の背景が浮かび上がった。とりわけ日本語における<擬音>という観点への問題の次の開口部が得られた。すなわち、とりわけ日本語においては、音色の言語表現の、人とその人を取り囲む情趣との結びつきの深さが指摘できるのであり、それは日本語に独自の抽象化のレトリック体系を作り出していった、と言える。 ピアノの音色記述については、ピアノがそもそも音楽を作り出す楽器であるかぎりにおいて、どうしても演奏批評、演奏仕方の表記と関連させざるを得ず、楽音の分析は、演奏批評と如何に分離させるか、という点に収斂して行く。音色のレトリック問題は、音源である「もの」自体を扱うのか、あるいはより演奏に関連させるのかで、アプローチが異なる。この問題は音色表記のレトリックという課題の提出の可能性・不可能性に連動しており、本研究はそのかぎりにおいてレトリックの限界と複層性を表面化させるものとなった。
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