220件余からなる「京都仏師関連文書」はこれまでごく一部が紹介されていたが、調査した結果、七条仏師(七条左京)に伝わった文書群と江戸時代後期の京都仏師清水定運に伝来した文書からなる文書群であることが確認できた。更に七条仏師と京都仏師の作品や関連文書との調査対照によって造像にかかる図像の蓄積、発注、納品、制作料の授受などの基本的工程を知ることができた。 七条左京家に伝来する図像は受継がれ制作に共用されるが、発注者にその図像が直接渡されることはなく、それをもとに材質や施工方法などを詳細に記した仕様書で提示していることが判明した。文書形式で提示され末尾に制作料の提示も確認できることから一種の契約書ともなっている。仕様書の提示は、七条仏師康乗発給の福井・大安寺松平光通像にかかる文書が最も古いが、以後京都仏師を中心に一般化する。この点は康乗以降、京都での造像の中核が七条仏師から京都(町)仏師へ移行する過程とも関連している。元禄年間には京都仏師が七条仏師を凌駕したことが理解されているが、「京都仏師関連文書」の発給からも窺え、また叡山文庫に寛文10年(1670)に七条仏師家が所持したと思われる「東寺補大仏師職之事」が残り、康乗の次世代である康祐、康傳が運慶以来の伝統を誇る東寺大仏師職を離れ、叡山関係の造像に移行したことが「京都仏師関連文書」からも確認することができた。以後、仕様書の記述は簡略化されながらも幕末まで維持される。 清水定運に伝来した文書は「模刻」と題された造像経歴に関連した文書である。既に前代まで膨大な作例が存在する近世では新たな様式を生みだされなかったが、「模刻」と称されてあるパターン化された像が繰り返し制作されることがその一因であるとみられる。 以上、「京都仏師関連文書」と造像に関連する文書群の解明によって仏像自体から窺い得ない製作過程や仕様との関係を明確に把握できた。
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