本年度は前回取得した研究費による成果を継承し、水戸藩彰考館による『舜水先生文集』編纂過程において派生した、知識人の交流の実態について考察した。特に当初文集を中国にて刊行すべく、長崎在住の唐通事を介して明朝の遺臣らに持ちかけながら、鎖国政策のもと果たさなかったこと、徳川光圀の文集も同様に中国での刊行を企図していたことが分かった。従来和刻本など漢籍を日本で新刻するケースは研究対象となっていたが、逆のケースが注目されたことは無く、十七世紀における束アジア世界の出版という新たな研究の可能性を開くものと考える。また長崎の唐通事の役割についても、従来中国語通訳業者といった商業目的側面が強調され、文化的な役割が看過されてきた。彰考館員と高尾家・彰城家の交渉から、鎖国政策下における日中文化交流の面で彼らのなした功績の意義付けも必要であると考えた。 また光圀の侍医であった穂積甫庵こと鈴木宗与が編纂した『救民妙薬』は、庶民に簡便な薬学知識を与える啓蒙書として評価されてきた。本書の刊行に関わった江戸の富野松雲なる書肆の存在から、従来京都の茨城多左衛門を中心に考えてきた水戸藩刊行物の蔵版システムの当初の実態を考え直必要が出てきた。また本書はニーズの多さから重板トラブルが多発しており、京都のみならず江戸における出版規制を誘発した可能性を示唆した。 研究の基本資料となる『大日本史編纂記録』(往復書案)が、散逸しながらも京都大学に寄贈された経緯について、伊勢松坂の豪商小津家の調査を行った。
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