公開研究会を3回開発催した。第4回(通算)では、主に雑誌の挿し絵に描かれた<少女>のイメージの変遷に関する報告と、樋口一葉のイメージが挿し絵と映画の映像を介しどのように定着したのかを検証した報告があった。第5回では、作家志望の青年たちが同人雑誌に託した戦略を太宰治の場合を取り上げ分析した報告と、1930年前後、名古屋で春山行夫、山中散生たちが次々に刊行した同人雑誌の物質を写真との関連をふまえて分析した報告があった。第6回では、中原中也が詩人として自己を形成する過程で京都という環境が果たした役割に関する報告があった。 以上の報告とそれに基づく討論を通してメディアの発する情報とその受け手に関わる認識を深めた。例えば、一葉のイメージは一枚の写真をもとに形成されたが、やがて「一葉の小説は読んだことはないし、又一葉の写真さへも見た事がない」という者が、映画を見て、「あゝ云ふ人だつたらうと思ひどこまでも引きずられてゆく」(『東宝映画』1939)という事態が生じさえする。コピーのコピーを受け入れることに対し疑問を抱いていない。1910年代に竹久夢二が、1920年以降に蕗谷虹児や中原淳一が描いた<少女>の髪型や服装を女性の受け手は憧れを抱いた。 京都といえば「古都」を連想し、名古屋といえば東京・大阪に次ぐ「中京」を連想する理解の仕方自体をあらためて検証する必要がある。中也は京都で『ダダイスト新吉の詩』を読み詩を書き始める。同時代の京都では未来派の展覧会が開かれた。山中散生はエリュアールやブルトンといったフランスの詩人と直接交流した。それぞれの都市における独自な動きを把握する必要がある。
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