研究概要 |
今年度は,1)「東方予型論」の理論的支柱としてのビザンティン典礼様式・暦の研究と明確化に努めるとともに,2)「東方予型論」の展開値として,わが国における悉曇の伝承および神仏習合の現象を,ここに位置づける試みを遂行した.以下,諸論文の骨子をまとめてみる.(1)たとえば2008年初頭以降,ギリシア・カトリック教会(GK)が拡充整備の度を高めつつあるスロヴァキアでは,社会主義時代,18年間にわたり同組織への激しい迫害が行われたが,これはある意味で,わが国の習合系寺院に対して明治初期に加えられた廃仏毀釈の現象と平行している.宗教的次元における地上での理想の追求は,国家主義的な思想統制が組織面にまで及ぶとき,まずもって激しい攻撃の対象となる.(2)この揚合の「地上での理想」とは,理念的な意味での普遍的共同体(カトリック教会/仏教)のもとに,地域的な特性を活かす実践形態(ビザンティン典礼/神道儀礼)を展開しようとする主張を表す.(3)スロヴァキアのGKは,キリスト教初代教会が被った経験を20世紀において追体験したとも言われるが,もし(1)における両者の平行化が適切ならば,「本地垂迹」の現象は,日本への真なる福音到来に先立つ「東方の予型」として十分に位置づけられよう.(4)キリスト教的福音の内実が,人間のもつ「神の像」性(創世記1.26)の復興,すなわち共同体的次元・個的次元双方における「神性の許なる人性の一体化」(共同体化,=受肉)というメッセージであるとすれば,神仏習合にもこれと同様のシェーマが適用できよう.(5)肝要なのは,かつて復古神道が国家神道へと進み,領土拡張のための理論的道具と堕した過ちを繰り返さないためにも,その際の「神性」の場をつねに「他者」化しておくことである.すなわち,(2)における「普遍」の場は,つねに自らの外に求められるべきであり,その意味で人間は,不断の自己脱自を繰り返すべきだということである.
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