本研究では、1920-30年代に活動を始めたアメリカ合衆国(以下米国)モダニズム芸術家に、当時のソヴィエト連邦指導者層およびロシア文化との影響関係にあった人々が有意に存在したという事実、並びに彼らのうちで中心的な役割を果たしたのが黒人知識人であったという事実に光をあて、以下の四点について、その意義を詳らかにする。(1) 同時期にソ連を訪れた黒人知識人は、ロシア文化の何に学ぼうとしていたのか。(2) ハーレムとモスクワの文化コネクションは、同時代における米国知識人の自文化イメージに、どのように影響していたのか。(3) 米ソ文化交流は、ソ連および米国の共産党とはいかなる関係にあったのか。その断絶は認められるのか。(4) それらの交流は、東西冷戦下にあった60年代の黒人知識人にどのように引き継がれ、いかなる展開を遂げたのか。 以上の四テーマに分けた事情を記述することにより、多くの場合、政治的競合関係に隠蔽された米ソの文化芸術分野における関係を詳らかにすることが、本研究の目的である。
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