ヴィオレ=ル=デュック初期試作品と19世紀前半の文学状況の関連について調査および研究を行った。 後に『韻文蔵書目録』で語られるように、ヴィオレ=ル=デュックはフランスの詩について総合的な知見の確立を目指していた。彼が取った最初の方法は詩の創作(『新詩法』(Nouvel art poetique)1809年)であった。『新詩法』という表題(明らかに古典詩人ボワローの風刺詩『詩法』を捩ったものである)から容易に推察されるように、彼が取った表現方法は「風刺」というきわめて古典的な方法である。ロマン主義台頭の時期にあって、あえてこのような方法をとった背景には、まさに彼の風刺的精神があると考えれらる。引き続き彼は『ローマとチブル』、『アポロンの帰還』、『ナポレオン弾劾詩』、『栄達の技法』、『計木詩法』と風刺詩を発表する。また、詩を創作する一方、官吏という職務を果たしながらも、自らの文学史観を形成すべく研究を続けていたように思われる。当時の文学史の大著、ラアルプ『古代近代文学講義』に見られるように、ギリシャ=ローマの文芸的権威がフランス古典期と継承され、それが18世紀の知的啓蒙の文芸へと継承・発展を遂げたとする文学史観に対して彼は反発を覚えていたに違いない。詩作品を連続して発表した後、彼は詩作から方向を転じ、まずフランス風刺詩人の系譜であるボワロー、レニエの校訂版を出版した後、『フランス詩概要』というフランス詩史の研究成果を公表する。彼はフランス古典期を評価するものの過大評価はせず、中世から16世紀ルネサンスを経て古典期に至る流れを叙述することで、ボワロー以降無視されて来た古典期以前の文芸を再評価する。これは、サント=ブーブを中心としたロマン主義グループが古典主義者達への反発からフランス古典主義の影に隠れた16世紀の文芸に価値を見出した動きとは別の再評価なのである。
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