研究概要 |
今年度の課題の中心として、7月王政下(1830-1848)のヴィオレ=ル=デュックの文筆活動とその背景を明らかにすることを掲げ、当時文芸ジャーナリズムの中心人物の一人であったサント=ブーヴとの関係を中心に研究を行った。 サント=ブーヴがジャーナリズムの世界に登場するのは1824年であるが、この頃、彼はヴィオレ=ル=デュックが催すサロンに出入りし、色々とヴィオレ=ル=デュックの世話になっていた。後年、サント=ブーヴが、ジャーナリストとして活躍するようになった後は、ヴィオレ=ル=デュックに対する感謝の態度が見られない、とするG.Charlierのような考え方もあるが、実際にはそうではない。確かに、直接サント=ブーヴが公表したものの中でのヴィオレ=ル=デュックの扱いはそれほど多くはなく、また冷淡と取られるような扱いであると考えれてても巳むをえない。今年度の研究では、ヴィオレ=ル=デュックがきわめて小部数で刊行した、Epitre a M. Sainte-Beuve,1837.[Signe:Viollet le Duc.], Paris: impr.de Ri-gnoux, (1837). In-8°,8p.の刊行時期を確定したうえで(実際、複数の書誌で刊行時期の記述に混乱が見られる)、この書簡形式の詩の内容および、アンリ=パタンが1844年に「ジュルナル・デ・サヴァン」に掲載したヴィオレ=ル=デュックとサント=ブーヴに言及した記事をあわせて検討することにより、彼らの交際は現実には続いており、「サント=ブーヴがヴィオレ=ル=デュックに対して感謝の意を表していない」とすることは妥当ではない、ということを明らかにした。
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