英国のモダニズム作家D・H・ロレンスがメキシコを舞台として書いた『羽毛の蛇』(1926)における異文化表象を、セクシュアリティ、ナチズム、ポストコロニアリズムの観点から考察した。 ミシェル・フーコー『性の歴史I-知への意志』における『羽毛の蛇』からの引用の含意をフーコー自身による性的欲望の装置の歴史的脈絡に沿って検討すると、『羽毛の蛇』が血の幻想と性的欲望の装置とを結びつけたナチズム的な側面を持つことは否定できないように思われる。しかし、西欧近代の枠組みのみでは主人公ケイトとセクシュアリティを捕らえきれないことも事実である。セクシュアリティを非西欧とのかかわりで言説化するのが『羽毛の蛇』である以上、このテクストを欧米の植民地主義ないし帝国主義という文脈抜きにナチズムとの関連のみから論じることには無理がある。実際、ケイトがメキシコに留まることは否定的な意味合いを持つが、それはナチズム的あるいはファシズム的なものへのコミットメントではなく、人種主義的原始主義への滞留を意味するという指摘もある。加えて、最終章におけるケイトの自我と欲望の揺れは、エンディングに至っても解消されていないと考えることも十分可能である。また、ジル・ドゥルーズは、その問題意識においてフーコーと極めて近い立場にいると言えるが、『羽毛の蛇』の評価をめぐっては両者は対極に位置する。ドゥルーズに従えば、ロレンスはユダヤーキリスト教からの断絶・批判を継承し、神の裁きや戦争、死の帝国主義に抗いながら書いた反帝国主義的作家であり、『羽毛の蛇』もその「闘い」の一環であるということになる。フーコーとドゥルーズの間に『羽毛の蛇』があること、言い換えれば、その異文化表象は極めて両義的な意味合いを持つことの詳しい考察は、今後の検討課題である
|