20世紀初頭、ジャポニズムがはやったパリの潮流をロシアの芸術家たちもいち早く摂取している。アヴァン・ギャルド演劇をリードした演出家フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940)は、様式化された日本の舞台表現の構造を研究し、応用した。彼が歌舞伎に見出した演劇の可能性は、(1)本物らしさという錯覚の拒否、(2)リズムによる統一感のある身体表現や型で構成する手法、(3)俳優(舞台)と客席の間を近づけること、である。このような演出は、ギリシャ演劇と、コメディア・デラルテなど、ヨーロッパの伝統とも実は共通である。歌舞伎を代表とする東洋の芸能に出会ったことが触媒となり、もともとメイエルホリドの中に蓄積されていた新しい演劇のイメージが華麗な展開を見せた。 一方、内戦後モスクワ芸術座がソヴィエト文化の使節として行った国外公演は近代的な演技法の確立を印象付け、各地でその手法の導入が急務の課題とされる。その媒介者となったのが、ミハイル・チェーホフやニコライ・エヴレイノブ等ロシアからの亡命者であった。現在のグルジア出身でフランスでロシア演劇の手法を広め、フランス演劇の「四天王」とまで評価されたジョルジュ・ピトーエフ、イギリスにおける演出の歴史を変えたと評価されているフョードル・コミッサルジェフスキー(1882-1954)も同様である。コミッサルジェフスキーは、ロシア時代にはスタニスラフスキーと、メイエルホリド等アヴァンギャルド演劇との双方を批判し、「神秘主義的リアリズム」と名づけた象徴主義的色彩の濃い演出を提唱した。イギリスではスタニスラフスキーの後継者として受け入れられたが、実際にはメイエルホリド同様、戯曲の改変を、作品のイメージが変わるほどに行った。イギリスの観客に合わせると同時に、みずからのロマンチックな象徴主義的表現でチェーホフの世界を思い通りに表現したという側面も否めない。
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