第1にテーマとしている未発見の渟足・磐舟柵の探求の手がかりについて、まず渟足柵・沼垂城は「長者のかめ」(伝承では酒船石遺跡の亀の石槽にも似ることについて雑誌『鑑賞』28号で解明)の探求を、新潟市松崎地内で19年3月にレーダー、電気、ボーリング調査を行った。その前提となる見解は、「」ことにより、埋蔵池の様子を掴むことができたようである(4月21日に報告会を予定)。また磐舟柵跡は、新潟県埋蔵文化財調査事業団の西部遺跡、窪田遺跡の調査が進行しており、その調査成果の分析に協力をしながら、肉薄をしている。 第2の目的である信濃・阿賀野川河口周辺における古土壌・旧表土の特色の把握は、前掲埋蔵池のボーリング調査で標本5本が得られ、協力者である浅層地質学の専門家の解析から理解を深めることが進みそうである(能登半島地震への対応で当資料の分析が遅れている)。 第3の目的では、両柵が内水面でつながる問題、また同時設計の問題を、日本書紀皇極元年の越辺蝦夷数千の内附記事の政策的結果とする解釈においた。同時設計では、未発見の出羽柵についてその前身を都岐沙羅柵とし、これを同時計画に仮定するに至った。また内水面における信濃との関係を明らかにした(『佐渡・越後文化交流史研究』7号)。 第4とした東アジア情勢の解明は、北海道奥尻島の青苗遺跡の調査により、北方文化民族との関係を理解できたほか、「流鬼」の入唐問題と阿倍比羅夫遠征との関係について知見を広めた。また城柵の国際的な比較が重要であり、ドイツ・ラインナウなどでのリーメス調査や韓国威安市城山山城と木簡調査から城村制との比較による視野形成と資料収集を進めた。
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