本研究の成果は、次の四つの目的に関してそれぞれ以下の具体的成果があった。 一 未発見の渟足・磐舟柵遺跡が深い埋没の下にあると仮定しその痕跡を追求する上で淳足柵の手懸りとなる長者の伏せたかめが埋没する池の深さをボーリング調査で-2.3mを、また埋立後の水田跡底部を-1.3mと確認し、発見に向かって接近した。また西部遺跡の鍛冶遺構に注目し、これが城柵内にありうるとの知見から周辺に磐舟柵があるという可能性がでてきた。 二 沼垂城墨書木簡の出土で注目すべき新潟市沼垂町旧地王瀬地区の地下の旧表土などの層位や広がりを解明する目的では、王瀬地区の東北2kmの長者の伏せたかめの探索と併せてボーリング調査を行ったが、この方面にその広がりのないことが確認できた。 三 渟足柵と磐舟柵とが海上交通のみならず内水面交通により結ばれ、両柵が機能を分担していたと想定する立場から、『日本書紀』皇極元年の越辺蝦夷数千内附記事の政治過程を解明する目的では、越より古い表記が高志であることが出土木簡から知られ、科野も信濃に表記が同様に変わることや6〜7世紀の継体・欽明紀にシナノ方面から物部がコシノシリヘやサドに進出したことを論じたが、平成19年発見の延命寺遺跡木簡がひとつの証左となった。 四 両柵に先行する6世紀代の日本海海域の歴史を明らかにする上で北限が奥尻島で阿倍比羅夫北征が及び得たことや新羅文武王海中墓で日本の脅威を自覚していたことを確認した
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