本年度は東寺宝菩提院文書をはじめとする史料収集を進めて、主に(1)幕府祈祷に従事した寺門系の僧侶の事蹟、(2)幕府と園城寺との関係について、基礎的事実の確定作業を行った。 この作業から浮かび上がってきたのは、将軍権力が北条氏に敗れた衝撃の大きさである。この政治的インパクトは仏教界にも大きな波紋を投げかけた。権力抗争に勝利した北条時頼は将軍方であった東密・山門を抑制し、得宗派の寺門を積極的に登用したが、その方針は幕府の権門寺院政策にも波及している。たとえば、100年ぶりに再燃した園城寺戒壇独立問題(1260年)は、鶴岡別当隆弁と幕府が園城寺をあからさまに支援しており、それがこの時期の山門・寺門抗争の背景となっている。鎌倉中期の顕密仏教界の流動化の一因に、幕府の政策転換があったことが見えてきた。 また、東寺宝菩提院文書にみえる元亨3年(1323)「関東将軍家御祈祷結番帳案」の検討を行い、論文「鎌倉幕府の将軍祈祷に関する一史料」(400字詰め換算105枚)を完成させた。この史料は、将軍守邦の護持祈祷を交代で行った24名の僧侶の結番名簿である。24名それぞれの事蹟を詳細に検討した結果、次の事実が明らかとなった。 (1)24名の宗派別の内訳は、東密11名、寺門11名、山門1名、不明が1名である。 (2)僧侶の官位に数カ所不正確な点があることから、この史料は1323年に作成されたのではなく、鶴岡八幡宮別当頼仲が1336〜1341年の間に作成した。 (3)24名の一人禅秀は北条氏出身であり、東寺長者となったが、幕府崩壊後は夢窓疎石の門下となり碧潭周皎と名を改めて、京都西芳寺や西山地蔵院の開山となり、禅密兼修の立場を貫いた。 (4)24名の一人である房玄は、この結番帳をもとに室町幕府での登用を求めた。その際、房玄は自らを「武家被官」「清撰二十四人之専一」と称したが、将軍護持僧とは語っていない。その点からすれば、この24名を将軍護持僧と捉えるべきではない。
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