本年度は、東密系・興福寺系幕府僧の事蹟と検討作業を行った。特に重要な良喩・光宝・実賢については論文「鎌倉中期における鎌倉真言派の僧侶」で、以下の事実を明らかにした。 1. 良喩の鎌倉下向を契機に安祥寺流は本格的に発展し、鎌倉安祥寺流と京都安祥寺流は互いに協力しあって顕密仏教界での地位を向上させた。 2. 鎌倉での光宝の伝法灌頂によって、鎌倉真言派は密教僧の再生産を自立的に行えるようになった。これは鎌倉末まで伝法灌頂を鎌倉で実施できなかった鎌倉寺門派との大きな相違である。 3. 実賢が醍醐寺僧として百年ぶりに東寺一長者に就けたのは、宝治合戦での調伏祈祷の功績による。 本年度はこの科学研究の最終年度であるため、鎌倉幕府と顕密僧・権門寺院との関係について総合的検討を加え、以下の事実を明らかにした。 1. 暴力的紛争が起きた時を除けば、権門寺院に対する鎌倉幕府の介入は概して抑制的である。 2. 幕府僧の畿内権門寺院への進出は、(1)幕府僧個人の栄達希望、(2)幕府僧を迎えて地頭の台頭を抑えようとした権門寺院の思惑、(3)朝幕関係を円滑にしたいとの朝廷の思惑、(4)幕府僧に上洛許可を与えた将軍・得宗の意向、以上の4要素によって決まっており、これを単純に鎌倉幕府の膨張政策と解するのは妥当ではない。 3. 北条時頼時代に幕府は宗教政策を転換し、鎌倉の顕密仏教の抑制、幕府僧の畿内進出抑制、禅律僧の保護に向かった。しかしモンゴル襲来後、鎌倉幕府は宗教政策を再転換して、幕府僧の畿内進出の解禁、顕密仏教の全面的発展に舵をきった。このように鎌倉幕府は、大きな宗教政策の転換を2度実施している。
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