近世、西廻航路の主要部をなすこととなる瀬戸内海航路と太平洋航路の接点であり、畿内と南海道諸国との連絡路でありながら、中世海運研究においては十分検討がなされてこなかった大阪湾南域および鳴門海峡以南の紀伊半島南西岸と四国南東岸海域(便宜的に「紀伊水道およびその周縁部」と呼ぶ)の通航とそこに展開された流通について、臨海諸国である淡路・和泉・紀伊・阿波・土佐国に関する史料をもとにその実態を追究した。直接的に海運を記した史料は限られているため、臨海諸国からの荘園年貢や人の移動などに際して海運が重要性をもったであろうことに注目し、当該地域に複数の所領をもつ荘園領主としての高野山や石清水八幡宮など寺社関係の史料や記録についても幅広く検討するよう努めた。また、当該期の政治・経済的要請を集約的に反映したと考えられる軍事行動に関する史料にも注意し、検討した。それらの作業から抽出できた各国の海運拠点となる湊・津・浦・泊について海運・流通に関する所見を探った。瀬戸内海に連絡する航路としては、大物浦経由の航路と、鳴門海峡経由の航路に大別できるが、従来の研究では看過されてきた後者が淡路国西南部の湊津を中継地として重要な機能をもっていたことが確認できた。また、商品として畿内で恒常的に高い需要のあった木材や森林資源の供給地としての土佐・阿波・紀伊国の役割が明らかとなった。瀬戸内海にかわる太平洋の航路として遣明船が通航した土佐-和泉(堺)が、従来、契機とされてきた応仁の乱以前に遡り、国内の商業通路として機能していたことが確認できた。
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