18年度は、期間を通じて高崎山城・立花山城・名島城の縄張りを調査・分析する基礎作業となる文献・絵図史料の調査を行った。その中で目立った成果として、旧態を辿ることが難しい名島城について明治期地籍図の下図になったと思われる絵図の存在を確認した。そして同図から、不明であった城下町(町屋地区)の形態について、屈指の大封大名小早川氏の居城下にしてはかなり小規模な一本街村状であった可能性が高いことを確認した。さらにその要因について、近接する博多が太閤蔵入でかつ朝鮮出兵の兵站基地となった特殊な条件下で名島城下への商業資本集積が順調に進まなかった、つまり、朝鮮出兵という国家的事業の名の下での博多の太閤蔵入地化が大名領国の拠点形成に大きな制約をもたらしたという、朝鮮出兵と大名領国支配との相克的な関係を推察した。これは朝鮮出兵によって全国的に著しい深化をみたとされる大名領国支配の中にあって留意すべき事例であり、19年度に研究雑誌に投稿予定である。 10月下旬からは、本研究案の中核の作業となる高崎山城跡遺構の現地踏査を始めた。調査の進捗状況は、学務等の関係で予定よりも少々遅れ気味であるが、旧主郭部を中心に遺構全体の三割程度の範囲を終了した。そして、当初の予見どおり、織豊系の縄張り技術による改修が新規本丸地区だけではなく、旧本丸一帯にも及ぶことを確認した。さらに、この改修の中にあって石垣の技術自体は粗割石を乱雑に積上げる戦国末期の在地系技術をそのまま継承したものであることから、大友氏では地場の個々の技術の改革に優先して、とにかく新体制の平面プラン(織豊系縄張り)を導入し実践することに関心が置かれたことを確認した。ここに、秒読みとなった朝鮮出兵を控え、豊臣大名化を早急に迫られた旧族大名大友氏の切迫した姿が看取できる見通しを得た。
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