20年度は、名島城の縄張りの解明と、高崎山城跡遺構の現地調査・実測に力点をおいた。 まず、名島城の地籍図・古絵図と最近の発掘調査で出土した石垣・瓦を基に、城の旧態を推定するとともに、構築の意味を考察した。そして同城について、(1)立花山城と同じく、最先端技術で構築された典型的な織豊系城郭であり、豊臣政権の強い要求の下に小早川隆景が構築したこと、(2)立花山城大改修と一連で、朝鮮出兵の準備(兵站基地である九州の治安維持に向けた「鎮西城」の整備、出兵軍の主力に予定する旧族大名小早川・毛利氏の軍事技術の「上風〈織豊流〉」への改革)の一環であったこと、(3)城郭部の様態に相反して城下町は大封大名にしては極めて貧相であること、(4)そこには、朝鮮出兵の主力兵站基地に予定する博多町の復興・整備という国家的戦略の前に一大名の領主権が飲み込まれたという特殊事情があること、を明らかにした。その大概は「名島城歴史と文化シンポジウム」で公表した。 研究案の中核の作業となる高崎山城跡の遺構調査は、前年度の大幅な遅れをかなり回復し、遺構全体の九割程度を終えた。特に成果として、外縁部の防塁型石塁および腰曲輪の虎口で、横矢懸りや櫓台など織豊系の縄張り技術の影響を受けた工夫がみられることを確認した。さらに、改修で構築した櫓台計7基にサイズの規格の意識がみられる(4基は1間半四方、3基は二間半四方)ことを確認した。これらの成果から高崎山城は、かなり変則的で歪んだ形態ながら織豊系縄張り技術の影響を受けていることが更に決定的となった。昨今、戦国後期から豊臣政権期の大友氏の拠点について、府内から臼杵に移転されていたとする見解が脚光を浴びる中、高崎山城の遺構調査の結果からは、これとは真逆の結果が得られる見込みである。つまり、大友氏は豊臣政権への参画を期に織豊系縄張り技術を意識しつつ高崎山城改修し、当城を核に膝下の府内で豊臣大名としての再スタートを切ろうとしていたことは疑いないと考える。
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