21年度は前年度に続き、遅れていた高崎山城跡の遺構調査を行い、12月末に終了した。これにより最終的に得られた成果の骨子は、先年度の実績報告書でも述べたので割愛する。名島城の縄張りと城下町の位置づけについても、昨年度に続き、分析を行った。この成果は「名島城歴史と文化シンポジウムI」(21年2月)の発表内容をさらに進展させたもので、7月に「名島城歴史と文化シンポジウムII」で公表した。ここでは、技術論の観点から名島城普請に豊臣政権の濃厚な関与があったことを指摘する一方で、名島城構築と筑前国支配が豊臣政権の直轄支配ではなく旧族大名小早川氏(毛利氏)の大名領とされた点に注意する必要性を説いた。すなわち、(1)名島城を簡単に「秀吉の城」と捉えてしまうと、豊臣政権の九州支配・朝鮮出兵の構想が毛利氏を基軸に据えたものであったという点を看過する恐れがあること、(2)さらに、豊臣政権から九州統治・朝鮮出兵の主力を担わされた小早川・毛利氏が政権の強力な挺入れを受けて本格的な織豊系城郭(立花山城・名島城・広島城)を創出したのに対し、同じ旧族大名でも大友氏は高崎山城の改修で“亜流"というべき織豊系城郭を創出したという点に豊臣政権の特質を捉える大きな論点が存在することを看過する恐れがあることを説いた。また、21年7月のシンポジウムの討論を通じて、近世史の基礎史料とされ名島城の普請開始時期の根拠でもある『宗湛日記』の日付の信憑性について、より慎重な検討が必要であるという、本研究の上で早急に確認を要する問題を得た。そこで、21年8月から22年2月にかけてこの問題を検討し、名島城の普請開始時期に関しては、『宗湛日記』の日付をそのまま信用できないまでも大概においては肯定する見解を得た。そして、最終的に総括を行い、本課題の当初に挙げた予見は特に大きな変更を必要とせずに確認できた。
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