日本の戦後放送体制成立に関する従来の研究は、SCAPの民間通信局(CCS)と民間情報教育局(CIE)が、日本の放送機関をどのように改造し、戦後の放送体制を規定した放送法の制定にどのように関わったのかについては論じてきが、それがアメリカ合衆国政府の政策、とりわけトルーマン政権の反共産主義政策(対日占領政策を含む)とどのように関係しているのか、連動しているのかについては考察してこなかった。そこで、本研究ではとくに一九四七年八月二七日に日本側に示されたハウギー・メモと一〇月一六日に日本側に渡されたファイスナー・メモのあいだに起こった変化、つまり、日本放送協会独占体制から公共放送・民間放送並立体制への変化に焦点をあて、アメリカの反共産主義政策(対日占領政策を含む)が、戦後の日本の放送体制の形成にどのように影響したのかを検証した。その結果、1)マッカーサーによる早期占領終結の準備(一九四八年大統領選出馬のため)、2)国際放送開始のための準備、3)のちに米対日協議会を結成するジャパンロビーのメンバーと国防次官ウィリアム・H・ドレイパーによる、いわゆる占領政策「逆コース」、の三つが複合してこの変化を生んだことがわかった。 この放送立法の「逆コース」から、公共放送・民間放送並立体制、それに続く民間放送設立ラッシュ、小電力他局化政策、日本テレビ放送網を中心とするテレビ導入の動きは生まれたのだと結論づけた。本研究ではとくに一九四七年八月二七日に日本側に示されたハウギー・メモと一〇月一六日に日本側に渡されたファイスナー・メモのあいだに起こった変化、つまり、日本放送協会独占体制から公共放送・民間放送並立体制への変化に焦点をあて、アメリカの反共産主義政策(対日占領政策を含む)が、戦後の日本の放送体制の形成にどのように影響したのかを検証した。
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