大正末から柳田國男と各地の郷土史家との連絡役を果たした橋浦泰雄の中から、柳田民俗学の組織化について地域的に重要な役割を担ったと思われる人物を戦間期に限定して抽出し、彼らの書簡を分析することで、当該期の柳田國男が地方に対して何を求め、想定していたのかを考察した。まず、(1)郷土史家からの書簡全体を俯瞰して、地域ごとに分別し、その上で(2)とりわけ集中的に書簡が集中している信州松本、関西(大坂・京都)、新潟、鳥取に絞って個々に書簡を分析した。 その結果、戦間期にあって上記の地域においては柳田、ないし橋浦の来訪が機縁となって、郷土研究会が成立した事例が散見され、それが核になって同地の郷土研究が進展していること、さらにその中心となる研究会を担った人物と柳田・橋浦が戦中戦後に到るまで、長期にわたる交流を続けていることを確認した。通常、近代日本の郷土研究が本格的に全国組織網を完備させたのは、一九三五年八月に行われた柳田の還暦記念を境とする「民間伝承の会」成立以降と位置づける場合が多い。しかし実際には、本研究で確認されるように、そこに到るまでの十数年間、地道に柳田民俗学は重点的にこれらの地域に向けて組織化をはかっており、この蓄積がやがて一九三〇年代に入って実を結んだと見る方が妥当である。 この行程によって構築された研究組織網は、やがて戦時下に於いても時局による影響を受けることのない、柳田民俗学の経験的な方法を維持する場として機能することとなる。
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