戦間期にあたる1920年代に柳田国男の主導する郷土研究が、いくつか地方で局所的に組織上の基盤作りを行っており、そこで形成された人的つながりが昭和10年代の柳田民俗学の飛躍的な地方浸透をはかる橋頭堡となったことを検証した。 とくに注目されるのは、当該の地域に柳田国男、もしくは柳田の信頼する民俗学者が出向き、在地の郷土史家と密接に交流することを基点としている部分である。とりわけそれが顕著なのは、長野県東筑摩郡で1920年代、丸松商事役員にして郷土吏家だった胡桃沢勘内を中心に組織された「話をきく会」、そして長崎県五島福江の五島合同新聞社長の久保清をめぐる在地の郷土史家たちが見せる民俗学への理解であろう。1920年代から柳田の高弟だった橋浦泰雄は、このふたつの地域に数回足を運び、同地の調査を行ったが、当時、社会主義運動にも参画していた橋浦に対して、当該地の郷土史家はいずれも、社会主義運動とは別個に、あくまで民俗学者として橋浦を遇し、滞在の時期はもちろん、長期にわたる書面での交遊を続けた。 ここで判明するのは、政治と民俗学を切り離すという了解事項が外側からやってくる民俗学者と、それを迎え入れる郷土史家との間で成立していた点である。そしてまさに柳田が重視したのは、郷土をよく知るという側面以外に、こうした信条を持つ信頼するに足る人物がその地にいるかどうかであった点が理解できる。網羅的に郷土研究を組織化するという「数合わせ」の論理だけではない、そこに信頼できる人物がいる、という前提条件こそ、まさにこの時期の柳田民俗学が射程に置いた組織化の尺度だった。
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