王家の家長(治天)の院御所および最上位の権門貴族たる摂関家の邸宅、そして王権守護を担う軍事権門(平家・幕府)の拠点(武家地)たる六波羅を包摂する中世前期京都の空間構造を見据えつつ、閑院内裏について関係史料(記録・古文書・典籍)の博捜など基礎的な作業を行い、これに政治史的な観点から考察を加えた。その結果、摂関時代以降、大内裏内の本内裏と里内裏が併存したが、12世紀末の高倉天皇以降、ほぼ閑院が正当な内裏(王家正邸)化するに至ったこと、また平家や鎌倉幕府による内裏大番役や内裏造営の対象になったのも、基本的には、この閑院であったことを明らかにすることができた。 裏築地によって囲繞された陣中空間を伴う王家正邸としての閑院内裏の成立は、王権守護を担う国家的軍事権門としての平家政権の成立と軌を一にしており、諸国の武士が上洛して内裏警固にあたる大番役や滝口武士の武家政権からの実質的供給も、これにリンクすることを明らかにすることが出来た。 また、内裏大番役における警固範囲について、近年の内裏を取り巻く陣中空間の存在に関する研究成果に学びつつ、その具体的様相を明らかにすることにつとめた。さらに、中山法華経寺所蔵日蓮遺文紙背文書に所見する鎌倉幕府有力御家人千葉氏による内裏造営・大番役関係の記事について、前年度の調査成果を踏まえて分析・検討を加えた。 以上、本研究で得られた閑院内裏にたいする政治史的評価は、今後の日本中世国家史研究に新たな視角を提供することになるとものと思われる。
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