12世紀後半、国家の軍事・警察部門を担当する唯一の軍事権門(「武家」)としての平家が成立し、その地位は内乱を経て鎌倉幕府に継承されることになる。この「武家」のアイデンティティは王権の守護者たることに求められた。したがって、その具体的な様相は、天皇の居所である内裏の警固と修造に示される。内裏の守衛にあたる武力として平安時代初期に設置された滝口について見ると、平家が「武家」としての地位を確立していくとともに、滝口の推挙権を持つ給所に平家一門とその関係者が目立つようになり、平家の家人たちが滝口を勤めるようになる。一方、内裏大番の制度は、平家と後白河院の提携のもとで高倉天皇が即位した時点に成立し、鎌倉幕府に継承された。高倉は閑院を日常の居所としたが、その周囲三町四方には平安宮(大内裏)になぞらえた権威空間として裏築地を備えた陣中が整えられ、そこが大番武士の警固空間となった。また、裏築地など陣中の諸施を含めた内裏の修造経費も「武家」を構成する全国の武士たちによって負担された。そして、閑院は大内裏内の本内裏が消滅するのに伴って王家正邸としての地位を確立し、10代90年の長きにわたって使用されることとなる。大番役の成立と同時に内裏となった閑院は、まさに王権と「武家」との関係を視覚的に示す空間といえる。当該時代における都市京都の空間構造については、この閑院と「武家」の空間である六波羅を二つの中心として押さえ、伝統的権威空間の存在を視野に入れながら、相互の補完関係を踏まえつつ捉え直していく必要がある。本研究の成果は、中世前期の国家・王権のあり方を理解する上で新たな視角を提供したものと思われる。
|