研究概要 |
20年度に引き続き『清内閣蒙古堂档』全22冊のなかから,ダライ=ラマ6世・ラサン=ハン・サンゲ=ギャムツォ・青海ホシュート部首長層自身が康煕帝に宛てた題本・表文を収集・翻訳し,彼らが康煕帝の側近であったシャンナン=ドルジをどのように認識していたか,また康煕帝がモンゴル人チベット仏教僧である側近シャンナン=ドルジを西寧に赴任させ,どのようにチベット・青海問題にあたらせたか,そのことが実際に効果があったかを検討した。その結果,モンゴル語・チベット語に精通し,チベット仏教・青海ホシュート部首長層の権力関係を熟知していたシャンナン=ドルジを,ダライ=ラマ・サンゲ=ギャムツォをはじめとするチベットの聖俗の有力者や,青海ホシュート部の首長層が非常におそれていることが明らかとなった。またシャンナン=ドルジも,そのようにおそれられていることをうまく利用し,ダライ=ラマ6世が沙弥戒を返上し僧侶としての修行を放棄した後のチベット情勢の混迷を何とか安定させようとしたことを見いだした。 また,当該時期の内陸アジア政策を含む清朝の統治政策について,江戸時代の知識人はどのようにして情報を得ていたか,また理解の到達点はどのようなものであったかを,19世紀初頭の事例として,長崎の阿蘭陀通詞である志筑忠雄・馬場為八郎の著述・翻訳を中心に考察した。その結果,志筑と馬場がオランダ語文献の翻訳を通して,清朝皇帝権力の多面性,清朝がシナとタルタリアからなら二重帝国であったこと,さらには,タルタリア部分の理解を深めるためには,「喇嘛」に関する知識を得る必要があること,清朝の政治が科挙官僚だけではなく,あらゆる出自を持つ側近よって支えられていたと理解していたことを見いだした。
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